哲学対話をやってみたい、と考えはじめたのはいつ頃だっただろう。
はっきりした時期は覚えていないが、理由だけは、わりとはっきりしている。
「大人も子どもしっかりと話をきいてもらう時間って必要だよな」──それが一番の理由だ。
私は本屋を始める前から今現在も、学校でのカウンセラーやソーシャルワーカーをしている。
この仕事は学生と接するイメージがあるかもしれないが、実は時に、学生以上に保護者と話すことがある。
子どもの将来のこと。夫婦関係のこと。誰にも話せなかった苦しみや悩み。
学校のこと、職場のこと。
そして、ときには保護者の幼き日々──親との確執や、傷ついた記憶。
中にはこちらの胸が張り裂けそうになる告白もある。
日常の中で誰にも話せなかった悩みを、偶然出会った私に話してくれるとき、
「信頼されているのかな?」という微かな喜びとともに、
「この思いを吐き出す場所がないのはしんどいだろうな」とも思う。
もちろん、大人だけでなく、子どもについても色々と思うことがある。
例えば、学校で授業を見学する時など、時折「その質問ナイスチョイス!」と思うときがある。
「先生なぜ勉強ってせなあかんの?」
「先生なぜ授業中に静かにせなあかんの?」
「先生将来勉強してなんの役にたつの?」
私たちも、子どもの時に何度も思ったこういった小さな疑問。
現代においても、そういった問いは、ことごとくこう返されていた。
「そんなことより授業に集中しなさい」
そんな中でも、私が見聞きした中で最高の質問だと思ったのが、
6年生の児童が、怒りっぽい先生にこう聞いた場面だ。
「教育の目的は人格の完成なのに、なぜ、先生は僕に怒ってばかりなのか?」
その先生は即座に、こう叫んだ。
「そんなもん建前や!建前という言葉を憶えろ」(実話です)。
正直、笑ってしまうと同時に、ぞっともした。
学校って、子どもたちの問いが、問いのまま扱われる余白が、あまりに少ない気がする。
大人が悩みを吐き出せる場所ってどこなんだろう?
子どもが問いをそのまま考え続けるためには何が必要なんだろう?
そんな疑問を抱えながら、何か小さく始められないかと思いを巡らしていた時、
ふと、いつも聞いてるポッドキャストのことを思い出した。
「あっ、いつも『答えを出さないのが哲学対話です』って言ってるやん」
受け身で聞いていたときは全く結びつかなかった。
でもよくよく考えたら、自分がしたいことや、引っかかっている疑問は「哲学対話」が良いんじゃないか。そう感じた。
「哲学は何も馬鹿にしない」
ある哲学者が語っていた言葉だ。
あなたが馬鹿にされてきた、どんな小さな問いも、皆で大切に考えてみたい。
「哲学対話は終わった時から始まる」
哲学対話で何かがすっきり解決するわけではないかもしれない。
でも、言葉にしようとした時間そのものが、残る。
しっかりと、誰かの言葉に耳を傾けたという感覚が、残る。
コギトの哲学対話は、まずは小さく、無理なく、続けていけたらと思う。
よければ、ふらっと覗きに来てください。
話してもいいし、聞いているだけでも大丈夫です。


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