2026/4/24 哲学対話を開催しました
4月24日(金)、本と文化コギトにて5回目の哲学対話を開催しました。
当日は、主催者を除いて9名の方が参加してくださいました。初めてご参加くださった方が4名、継続して参加してくださっている方が5名(うち2名は4月2回目のご参加)でした。ご参加くださった皆さん、本当にありがとうございました。
回を重ねるごとに、少しずつこの場の空気も育ってきているように感じます。初めて参加される方と、継続して参加されている方が自然に混ざり合いながら、それぞれの言葉で考え、話し、耳を傾ける時間になりました。
今回のテーマが決まるまで
今回も、まずは参加者の皆さんと「問いだし」から始めました。
出された問いは、たとえば次のようなものでした。
・どうしたら一歩を踏み出せるのか?
・偶然・必然って何?
・人はなぜ後悔するのか?
・なぜ本は縦読みばかりなのか?
・ムダって本当にいらないの?
・どうやったらしんどい気持ちを切り替えられるの?
・なんで人は「ふつう」から外れるのがこわいのか?
・考えと行動はなぜ一致しないのか?
・どういう時に人は笑顔になるのか?
毎回感じることですが、「問い」には、その人自身の暮らしや経験が自然とにじみ出るように思います。
何気ない疑問のようでいて、その人が日々どんなことに引っかかり、何を大切にして生きているのかが垣間見える。哲学対話の面白さの一つは、問いを通して、その人の輪郭が少し見えてくるところにもあるのかもしれません。
その中から多数決を取り、今回のテーマは「ムダって本当にいらないの?」に決まりました。
「ムダ」について考える
対話のはじめに、この問いを出してくれた参加者の方から、こんなお話がありました。
「職場では“ムダなことをしてはいけない”というプレッシャーがある。でも、自分はムダだと思われる時間が好きだ」
「ムダの無い世界って、AIみたいな世界なのかもしれない。効率やスピードばかりが優先されるような」
その言葉をきっかけに、「ムダ」という言葉について、さまざまな意見が交わされていきました。
ムダ=悪いこと?
参加者の方からは、こんな声もありました。
「“ムダ”と聞くと、逆にときめく。ムダなことを探して生きてきた気がする」
「職場でも“ムダ・ムラ・ムリを無くす”という言葉をよく聞く」
「“ムダ”という言葉の響き自体が悪いのかもしれない」
「あの時はムダだと思っていたけれど、振り返ると今の自分につながっていることもある」
「インスタグラムばかり見ている時間は、本当にムダだと思うこともある」
「ムダだと感じる時って、“時間を浪費している”という罪悪感があるからではないか?」
普段、何気なく使っている「ムダ」という言葉ですが、改めて考えてみると、とても曖昧で、不思議な言葉でもあります。
誰かにとっては大切な時間でも、別の誰かにとっては「役に立たないこと」に見えることがある。逆に、その時はムダに思えても、何年か経ってから意味を持ち始めることもある。
対話をしていく中で、「ムダ」というものを、自分自身で決めているというより、社会や他人から“ムダだ”と判断されている場面も多いのではないか、という話にもなっていきました。
「ムダ」は必要な遠回り
さらに対話が進む中で、こんな意見も出されました。
「ある人にとってはムダでも、別の人にとっては必要なこともある」
「“ムダ”かどうかは、人や状況によって変わるのではないか」
「心地よいムダを感じられるかどうかには、自分の気持ちの余裕も関係している気がする」
「人生を振り返ると、“ムダ”だと思っていたことが、必要な遠回りだったと思えることがある」
学校・職場・家庭など、今の時代は効率や成果を求められる場面が増えているように感じます。
「役に立つか」「意味があるか」「結果につながるか」。
そうした尺度で物事を見ているうちに、自分自身も、知らない間に誰かや何かを「ムダ」と判断してしまっていることがあるのかもしれません。
ただ、今回の対話を通して、「ムダかどうか」を他人が簡単に決めてしまうこと自体が、実はとても危ういことなのではないか、という感覚も共有されていったように思います。
ムダを活かすのも自分
そんな対話の中で、こんな具体例も出されました。
「高校時代に習った、サイン・コサイン・タンジェントなんて、人生で一度も使ったことがなく、本当にムダだと思っていた。でも今、この哲学対話で“サイン・コサイン・タンジェントなんてムダだと思っていた”という話を、こうして話せているだけでも、意味があったのかもしれない(笑)」
その言葉に、参加者の皆さんも自然と笑っていました。
そこから、主催者からこんな質問を出してみました。
「皆さんが最近、“ムダだなあ”と思ったことはありますか?」
すると、ある参加者の方は、
「旅行先で夫が“散歩する”と言って、同じ場所を何度もグルグル歩いていた時、“本当にムダだな”と思った」
と話してくださいました。
また別の参加者の方は、
「夫にワサビを買ってきてと頼んだら、同じものを2本買ってきて、“ムダだな”と思った」
と話され、会場には自然と笑いが起こりました。
けれど、そのあと、お二人ともこんなことを話されました。
「でも、対話をしているうちに、自分にとってはムダでも、夫にとっては意味があったのかもしれないと思えてきた」
「家に帰ったら、今日の対話の話をしてみようと思う」
その言葉を聞きながら、哲学対話というのは、単に“正しい答え”を探す場ではなく、自分とは違う見方に触れることで、他人を少し受け入れやすくなったり、想像できるようになったりする場なのかもしれない、と感じました。
哲学対話の変化
今回の哲学対話は、内容だけでなく、対話の進み方そのものにも変化を感じる回でした。
これまでは、誰かが発言すると、一度司会者に戻し、そこからまた別の参加者へ、という「ターン制」に近い形で進むことが多かったように思います。
しかし今回は、ある人の発言に対して、別の参加者が自然に問い返したり、自分の経験を重ねたりしながら、司会者を介さなくても対話がつながっていく場面が多くありました。
参加者同士で自然と対話が深まっていく感覚があり、とても印象的でした。
また、今回は「ムダって本当にいらないの?」というテーマから始まったにもかかわらず、途中で、ある参加者の方が、
「実は、選ばれなかった“なんで人は『ふつう』から外れるのがこわいのか?”という問いが、ずっと気になっている」
と話され、そこから「ふつう」についての対話も始まりました。
その流れの中で、
「“ムダ”と“役に立つ”」
「“ふつう”と“へん”」
という言葉は、どちらも“誰かによって定義されるもの”という意味で、どこか似ているのではないか、という話にもつながっていきました。
さいごに
一つのテーマを深めていく中で、別の問いへと自然につながっていく。
そして、それぞれの問いについて、誰かが“正解”を持っているわけではなく、他の人の話を聞きながら、自分の考え方や見え方が少しずつ揺れ動いていく。
今回の対話では、そんな哲学対話ならではの時間が、これまで以上に自然に生まれていたように感じました。
回を重ねる中で、哲学対話のやり方や空気感もコギトならではのものへと少しずつ変化しているのかもしれません。
ご興味ある方は、是非、一度コギトの哲学対話に参加してみて下さいね。
今回も、ご参加くださった皆さん、本当にありがとうございました。



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