2026/4/10 哲学対話を開催しました
4月10日(金)、本と文化コギトにて4回目の哲学対話を開催しました。
今回から、主催者のスケジュールの都合で、開催日を木曜日から金曜日に変更しました。
また、金曜日はコギトの営業日でもあるため、哲学対話は閉店後の19:00〜21:00での開催となりました。
毎月、コギトのスケジュール発表が遅くなってしまい、今回も告知から開催まで一週間ほどしかありませんでした。
そのため、どれくらいの方にご参加いただけるのか、少し不安もありました。
しかし、その不安は結果的には杞憂に終わりました。
インスタグラムなどで呼びかけをさせていただいたところ、当日は主催者を除いて9名の方が参加してくださいました。そのうち、初参加が6名、継続参加が3名でした。予約参加が6名、飛び込み参加が3名でした。
急な開催発表にもかかわらず、ご参加くださった皆さん、本当にありがとうございました。
今回のテーマが決まるまで
今回も、まずは「問いだし」から始まりました。
ただ、今回からはこれまでとは少し違うやり方でテーマを決めてみました。
これまでは、参加者の皆さんに「今、気になっていること」などを順番に出してもらい、それらを話し合いながら「これとこれがつながっているね」という形で整理して、最終的に一つのテーマを決めていました。
今回は、問いを出して話し合うところまではこれまでと同じですが、最後は参加者の挙手による多数決でテーマを決める方法にしました。
これまで哲学対話を重ねる中で、どのテーマであっても、深めていくうちにほかの問いへ自然につながっていく、という実感がありました。
また、テーマ決め自体に時間がかかる回もあり、それはそれで面白いのですが、どうせ最終的にはいろいろな問いが通じ合っていくのなら、もう少しスピーディーにテーマを決めて、その分、対話の時間を長く取れたらと思い、このように変更してみました。
実際の問いだし
今回、参加者の皆さんから出していただいた問いは、たとえば次のようなものでした。
- なぜ人は比べてしまうのか?
- どういう条件なら人は話をしてくれるのだろう?
- つかれるって何だろうか?
- 人は「捨てる」ということを、捨てることはできるのだろうか?
- 友達を友達たらしめているものは何か?
- なぜ人は飽きるのか?
そして今回は、この問いの中から多数決をとりました。
その結果、最終的に「つかれるって何だろう?」というテーマに決まりました。
「つかれる」について
対話の冒頭で、参加者の方からこんな意見が出されました。
「つかれには、肉体的なものと精神的なものの二種類があると思う」
「肉体的なつかれは取れやすい気がする。でも精神的なつかれはなかなか取れない」
その意見を聞いて、私自身もとても思い当たるところがありました。
そこから、さまざまな「つかれ」についての対話が始まりました。
向き合うからこそ「つかれる」?
対話の中では、こんな意見が飛び交いました。
「最近、ジム通いを始めた。肉体的なつかれは爽快感につながるときもある。でも、上司に怒られたりするような精神的なつかれは、ずっとしんどいままである」
「精神的なつかれは、自分の思い描いていた反応と違っていたときのギャップで生まれる気がする。たとえば、褒められると思っていたのに怒られたりしたときとか」
「自分でコントロールできない状況が発生すると、精神的なつかれが生まれる気がする」
このように「つかれる」というキーワードから、さまざまな意見が交わされました。
そして、こんな意見も出ました。
「子どものことで、どっとつかれることがある。でも、それは結局『とても大切な存在』だからこそ、自分をつかれさせるのかもしれない」
そこから、さらに次のような意見も出てきました。
「放っておけたり、無視できたりすることでは、あまりつかれないのかもしれない」
「放っておけなかったり、大切な存在やものだからこそ、自分をつかれさせる」
そして、
「つかれるって、しっかり向き合っているからこそ生まれるものなんじゃないか?」
という言葉も出てきました。
「つかれ」がまったく無い世界とは?
ここまで意見が出た段階で、「つかれ」の多面的な姿が少しずつ見えてきました。
「つかれ」は一面的なものではなく、自分の価値観や、大切にしているものと密接に結びついている側面があるのではないか。そう思うと、つかれはただネガティブなだけではなく、ポジティブな側面も持っているのではないか、という気もしてきました。
そこで、主催者の私から参加者の皆さんに、こんな質問をしてみました。
「人生で一番ポジティブな『つかれ』って何ですか?」
すると、ある参加者の方が、こう即答されました。
「それは、出産! 今は子どもも自立するくらいの年齢になったけれど、自分はあの出産のときの感覚を忘れることはないだろう」
私自身には出産の経験はありません。
けれども、つかれや痛みの先に子どもを産むという感覚が、その参加者の方にとって、たしかにポジティブなものでもあるのだろうということは想像できました。
人それぞれに、人生で一番ポジティブな「つかれ」があるのかもしれません。
そんなことも考えさせられました。
つかれは、自分を知るサイン
そして、その後、こんな問いも場に出されました。
「まったくつかれが無い世界って、どんな世界だろう?」
この問いに対して、私自身は「もしかしたら、つかれが無い世界というのは、AIやロボットが暮らすような世界の話なのかもしれない」と答えました。
そこから、つかれというのはとても人間的な感覚なのではないか、という意見が出ました。
人間だからこそつかれる。
大切な存在だからこそつかれる。
向き合っているからこそつかれる。
そして最終的には、こんな言葉も出ました。
「つかれは、自分を知るためのサインなのかもしれない」
そう考えると、「つかれも必要以上に深刻にとらえるのではなく、ときには少し楽しむくらいの感覚で付き合えたらよいのではないか」という意見も出ました。
安心して話せる場を求めて
今回も、哲学対話を始める前には考えてもいなかった「つかれる」という言葉について、参加者の皆さんと一緒に深く考えることができました。
最後の感想でも、数名の方が「1時間ほど前には考えてもいなかった『つかれる』という言葉について、こんなにもいろいろと考えることができた」と話してくださいました。
私自身も本当に同じ思いでした。
そして、とても印象深かったのは、数名の方がこのような趣旨のことを言ってくださったことです。
「今まで、ずっと一人でいろんなことを考えていた。どこかで哲学対話のような、安心して言葉を出せる場所を探していたのかもしれない」
今回に限らず、これまでもそうした言葉をかけてくださる方が多い印象です。
SNSなどコミュニケーションの方法が多様化し、社会や暮らしの先行きが見えにくい時代だからこそ、安心して語り合える場を求めている人が多いのかもしれません。
コギトの哲学対話が、完全に「安心して語り合える場」かと問われると、まだまだかもしれません。
少しずつ、どんな考え方の人も、どんな立場の人も、安心して語り合える場になるように、小さな工夫や変化を試していきたいと思います。
哲学対話が気になる方がいれば、ぜひ参加してみてくださいね。



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